短編小説

箱舟に乗せた想い

 ――これからも、ずっと一緒にいようね。
 ――うん。ずっと一緒。
 ――約束ね。
 ――うん。約束。

 閉じていた瞳を開けると、どうしてか、その先の未来が、見えなくなった。瞳を、開けているのに。それはとてもとても儚い、胸中を駆け巡るだけの記憶達だと、一瞬で思い出したけれど。
 私は今、家から徒歩10分程で到着する、思い出のいっぱい詰まった河原へと来ている。
 時刻は、20時50分。穏やかに、緩やかに流れる川を、一人しゃがみ込んで眺めていた。
 右手には、もう嵌め込まれていない腕時計と、それを仕舞う為の宝箱を持って。左手には――……。
 暗い空を見上げると、無数の星が瞬いていた。
「綺麗だなぁ……」
 その美しさに思わずそんな言葉を漏らした。そして視線を、右手の腕時計に向けた。時計の針が21時を指したら。
 私は時計を宝箱の中に入れ、それを横に置くと、お尻を地面に付けて、両膝を立ててそれを抱え込むようにしながら、小さく蹲るように座った。21時まで、このまま待機。はぁーっと吐き出した息が、白くなった。

 一年と三十五日前の今日、私は大切な人を失った。

 でも、ただ、遠く離れただけ。きっとどこかで、笑ってるんだろう。
 ずっと一緒だった私の事も、二人がずっと同じ時間を過ごせるように、二人の時間が永遠に刻まれるようにと願いくれたこの腕時計の事も、これからもずっと一緒だと二人で交わした約束の事も、二人で苦しみ二人で笑った沢山の思い出も全部全部忘れて。
 きっとどこかで、笑ってるんだろう。それが少しだけ寂しいけれど、泣いているより、ずっといい。
 私は傍に置いていた宝箱を抱えると、立ち上がり、川に近付く。水面に夜空が映し出されて、それはとても美しいものだった。
 携帯電話で、時刻を確認する。時計を仕舞ってしまったから、確認する術がこれしかなかった。
 20時59分。あと、一分。

 21時を、指したら――……

「さよなら」
 私は、時計が仕舞われた宝箱を、そっと川に流した。
 時計も、宝箱も、どちらも小さい頃の物だから、高価なものなんかじゃなく、おもちゃみたいな物だけど……だからこそ、あれはきっと、沈まないだろう。雨が降って、水量が増えて、水の中に埋もれてしまっても、きっとどちらも、壊れはしないだろう。
 あの宝箱は、大昔の偉大な彼が作ったもののように、大きく立派なものなんかじゃないけれど。それでも、時計を守る為、舟の役割くらいは担ってくれるだろう。
 あの時計は、大昔の偉大な彼のように、美しい時間だけを刻んだものじゃないけれど。それでも、誰にも捉われず自由で美しい時間だけを、これから先刻む事が出来るだろう。
 きっとどちらも、壊れはしない。私の知らない遥か彼方の岸に、漂着するだろう。

 一年と三十五日前の今日、私は大切な人を失った。
 この河原は、二人の思い出の場所で。
 この時間に、私はあの時計を貰った。

 ――これ、やるよ。
 ――いいの?
 ――うん、やる。
 ――ありがとう。

 小さな頃に、そう言ったあの人は。

 ――二人がずっと、同じ時間を過ごせるといいな。この時計が二人の時間を、ずっと刻んでくれたらいいな。

 大きくなって、そう言った。

「さよなら。ありがとう」
 白い吐息と共に吐き出された言葉に、自分で言ったにも関わらず、泣き出しそうになってしまった。
 もう、充分に泣いた。だから、もう泣かない。
 この川を流れた先は、海だ。大きくて広大なあの海に、ゆらゆらと流れて行く箱を、見えなくなるまでずっと眺めていた。水面の夜空、まるで箱が天の川を泳いでいるようだった。

 ――これからも、ずっと一緒にいようね。
 ――うん。約束。

 煌いた時間を刻んだ時計。先刻まで右手にあったそれは、海へと、広い海へと流れて行くんだ。
 煌いた時間そのもの。先刻まで左手にあったそれも、海へと、広い海へと流れて行くんだ。
 そして、きっと優しさになって、この手の平に帰って来るんだ。
 いつの間にか自分は泣いていて、それに気付くと、もっと涙が溢れて来た。けど、いつまでもここにいる訳には行かないから、踵を返し、家までの道程を歩こうとした。
 すると、犬の散歩をしていた少年が少し離れた場所に立っていて、こちらを見ていた。他人に泣き顔を見られなくないと思い、その横を素通りしようとしたのだけれど、
「……大丈夫ですか?」
 優しい言葉に思わず足を止めてしまった。
 驚いて振り返った私に、誰かも解らない少年は、綺麗なハンカチを差し出してくれた。彼の連れていた犬も、尻尾を振りながらこちらを見ている。
 温かい情景にまた涙が溢れてしまったけれど、私は彼の厚意を素直に受け取り、そのハンカチを受け取った。

 一年と三十五日前の今日、私は大切な人を失った。
 四百日と四十夜降り続けた雨は、これで漸く、止むのだろうか。
 これで漸く、救われるのだろうか。
 四百日と四十夜降り続けた雨は止んで、明日には空に虹が、

 掛かるのだろうか。

 -fin-

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