短編小説

きっと、これは

 恋に落ちるまでは、早かった。

「池内、次の授業、教科書見せてくれよ」
 一限目の授業が終わり、次の授業が始まるまでの十分の休憩時、隣に座っている武本は、そんな事を言って来た。
「……また忘れたの?」
「ああ。昨日ちゃーんと鞄に入れたのによ~。どこ行ったんだ」
 武本は、机の中を覗き込んだり、鞄の中をごそごそと漁ってみたりと、忙しなく動いている。
「入れてないから今ないんでしょ。もう……次はちゃんと持って来てよね」
「ははは、悪りぃ悪りぃ」
 へらっと笑って見せる武本。その謝罪の中に少しも悪びれた様子など微塵も含まれてはいなく、少しだけむっとした。
「もう……」
 仕方無いなぁ……と言葉を続け、私は机の中から次に使う教科書を取り出し、それを広げると、隣の武本にも見える位置に置いた。
「サンキュ。このお礼は必ずするからよ!」
「……お礼?」
「そ。」
「お礼ってどんな?」
 得意気に語る武本に、そのお礼とやらがどんなものかと期待して問う。何か貰えるのなら嬉しいし、それは物でなくても自分にプラスになるものなら何でも嬉しいから。
「……うーん、まだ考えてねぇや」
「何それ……」
 自信満々に言っておいてこれだ。いつも考えなしに言葉を紡ぐものだから、結局こうなるのではと思っていた。私は呆れた表情で武本を見た。
「まっ、何かお礼はするから、楽しみに待ってろよ」
「期待せずに待ってる」
 にかっと笑う武本につられて、私も笑った。
 その時。
「おい、タケ。お前に用事があるってあの一年が……」
 クラスメイトが武本に用件を伝える為に傍までやって来て、教室の後ろ側の扉を指差した。
 自分に言われている訳ではないのに、思わず私もその方向を振り向く。
「何だ、笠井じゃねぇか」
 扉の傍には、笠井と呼ばれる少年が立っていた。
 つり目がちの大きな瞳に、サラッと前髪が掛かっていて、黒い無造作ヘアは彼によく似合っている。形のいい口唇はキュッと結ばれていて、彼の醸し出す雰囲気から、口数の少ないクールな少年に思えた。背は低めだけれど、かっこいいな、そう思った。
「おーい笠井、入って来いよ!」
 武本は大きな声でそう叫んで、少年を呼んだ。自分があちらに行ってあげる気はないようだ。二年生の教室まで足を運ぶ事すら勇気が要るものなのに、教室に入るなんてよっぽど図太い神経でもしていないと無理だ。
「……ここでいいですよ」
 小さく、それでもこちらに何とか聞こえる声で、少年は言った。
「武本、行ってあげなよ」
 入り辛いのだろうと思い、私は武本にそう言った。武本は億劫そうに立ち上がり、
「何だよ」
 そう言いながら笠井という少年の傍まで歩いて行った。
 二人が話している様子は気になったけれど、私の席は窓際だったから声は聞こえないし、自分には関係のない話をじっと聞いているのもどうかと思ったので、視線を前に戻して、次の授業で使うノートを開いて、それを見ていた。
 けれど、集中も出来なくて。
 二人の話が気になるというよりも、彼が――笠井という少年が、何故か気になった。
 時計を見ると、あと一分でチャイムが鳴る事に気付く。
 授業もう始まるよ、そう言おうと二人がいる場所に顔を向けると、話を終え自分の教室に戻ろうとしている彼と目が合った。
 つり目の大きな瞳が、まるで自分を見据えるかのようで、ドキっと胸が高鳴った。
 顔が熱くなるのを感じて、すぐに視線を逸らしたが、やっぱりどうにも彼が気になって仕方なかった。

 *

 にこりと笑う笑顔が、印象的だった。
 タケ先輩の教室に着いて、すぐに声を掛けようと思った。
 別に二年生の教室に来る事も、声を掛ける事も、どうって事ない。ズカズカと室内に入る事だって簡単に出来たけれど、教室に着いてタケ先輩が隣の女子と話している様子を見ると、どうにも声を掛ける事が憚られた。
 何を話していたのかまでは分からなかったけど、あんな風に笑って話している二人を見ると、何だか声を掛けてはいけない気がしたんだ。
 タケ先輩は、基本的に誰とでも仲良くしているし、女子とも普通に話す。俺ら一年にだって気さくに話してくれるし。
 でも、さっきの隣にいた女子とは何だかいつもと違う気がした。
 何かこう……、特別感? みたいなものを感じたんだ。彼女、かも知れない。
 俺は適当に近くにいた名前も知らない先輩に、タケ先輩を呼んで貰おうと声を掛ける事にした。
 用事って言っても部活の事でちょっと伝える事があっただけだし。
 タケ先輩は俺に気付くと、入って来いと呼んだが、用件が用件だし、何か……彼女の近くに行く事が出来なくて、ここでいいと思わず口をついてしまっていた。
 僅かな俺の動揺に、誰も気付いてはいないだろう。
 俺はタケ先輩に用件を伝え、続けて、「あの人、先輩の彼女ですか?」と尋ねてしまおうかと考えた。
 けど、やめた。
 暫しの躊躇をタケ先輩が不審がらなかったのは救いだ。
 話し終えて、俺は自分の教室に戻ろうとしたその一瞬、彼女を振り返ると、目が、合ってしまった。
 少しだけ垂れた、パッチリとした瞳。何かを紡ぎ掛けた薄ピンクの小さな口唇に、日差しで茶色に染まる、色素の薄い直毛の長い髪の毛。
 可愛い先輩だな、そう思った。
 すぐに視線を逸らされてしまったけれど、一瞬ぶつかった視線と、タケ先輩と話していた時の彼女の笑顔が、俺の中から離れなかった。

 *

「急がないと……」
 先日行われたテストの点が下がってしまった事で、放課後、担任の先生に呼び出されてしまった。
 部活もあるのに先生の話ってば長いんだから……。
 校内に設置された時計を見ると、部活は既に始まっている時間だった。
 私は運動部に所属している。
 部室に着いたらすぐに着替えられるようにと、体操着を手に抱えたまま、廊下をバタバタと走っていた。
 階段を下りてあの角を曲がって……そう考えて角を曲がろうとしたその時――……。

「――!」

 ドンッ! と何かにぶつかったような鈍い音と共に、自分にも衝撃が走った。
「痛っ……」
「……ッ……」
 鋭い痛みが走ったその一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 目を開けると、先刻まで走っていた自分は尻餅をついて座り込んでいるし、抱えていた鞄も体操着も、近くに散乱している。
 そして目の前には……。

「――君は……、」

 そこには、今日の一限目の終わりに、武本を訪ねて来た笠井という少年が、座り込んでいた。
 彼の傍らには、何冊もの本が散乱している。
 どうやら自分とぶつかったのは、この少年のようだ。
「ご、ごめんね……大丈夫だった……?」
 ゆっくりと立ち上がりながら少年に問うと、彼もまたゆっくりと立ち上がる。
 彼は制服をパンパンッと叩きながら、「……大丈夫です」と、ぶっきらぼうに答えるだけだった。
「本当にごめんね……」
 私はもう一度謝罪の言葉を口にすると、彼の傍に散乱している本を拾い上げようと、再びしゃがみ込んだ。
 こんなに何冊もの本を抱えて彼は歩いていたのだろうか。だったらきっと、彼は走ってなどいなかっただろう。自分が勢い良く走っていた所為で、彼まで巻き込んでしまったのだ。
 申し訳なさに必死で本を掻き集めていると、頭上から「あ」という声が聞こえた。
「……?」
 私が顔を上げて、その声が発せられた方向――少年の顔を見ると、彼は私の顔をじっと見つめていた。そして言葉を続ける。

「タケ先輩の彼女。」

 私はその言葉に、固まってしまった。
 タケ先輩……? タケ……? 「タケ」というあだ名は、私の知る限りではあいつしかいない。あいつ、同じクラスの、しかも隣の席のあいつしか――武本しか知らない。
 しかも今日この少年は、武本を訪ねに、教室までやって来ている。
 まさか、まさか……。
 私は徐に立ち上がると、眼前の少年を見据えた。
「……タケ先輩って、武本の事?」
「はい」
 彼はさらりと答えた。
「私が、武本の、……彼女?」
「違うんですか?」
 彼はつり目がちの瞳を大きくさせて、パチクリとさせた。彼のとんでもない勘違いに、私は慌てふためいて、必死に否定の言葉を口にした。
「わ、私、あいつの彼女じゃないよ……!」
 何でよりによってあいつなの……。どうせ勘違いされるんなら、もっと素敵な男子にして欲しいよ……。武本なんて仲のいい男友達ってだけなんだし……。
 私は、自分の相手が武本だと勘違いされた事と、勘違いしていたのがこの少年だった事にショックを受けてしまった。
「あいつは、仲のいい男友達で……お互いにそういう感情は一切ないよ」
 何とか誤解を解こうと、私がそう言うと、彼は私をじっと見つめた後、しゃがみ込んで私の散乱している荷物を拾い上げようとしていた。
「あ、自分で拾うからいいよ」
 私が慌てて片付けようとすると、彼は私の体操着を丁寧に畳み、私に手渡してくれた。
「池内さんって言うんですね」
「え? あ、うん……。……ありがとう」
 噛み合わない話に少しだけ戸惑ったけれど、彼が丁寧に畳んでくれた体操着を受け取ると、私はお礼を言った。名字は、体操着に刺繍されたものを見たのだろう。
 それから特に会話をする事なく、お互いがお互いの持っていたものを片付けて拾い上げると、その手に手渡した。
 本をどっさりと抱えた彼は、私に背を向けて歩き出そうとしていたから、私は最後に呼び止めた。
「笠井君、だったよね? 本当にごめんね。怪我はなかった?」
 彼――笠井君はくるりと私の方へ振り返ると、
「ほんとに大丈夫です」
 そう言った。
 私が安心して微笑むと、それを確認した笠井君は、前を向いて歩き出した。
 その背中を暫く見つめていると、突然彼が立ち止まり振り返ったから。
「!」
 ドキッとした。見つめていたのがバレのだろうかと少しだけ動揺してしまった。
 笠井君をじっと見つめていると、彼はにっと笑って言った。

「池内先輩が、タケ先輩の彼女じゃなくてよかった。……まっ、タケ先輩に池内先輩は勿体無いですけどね」

 じゃ、そう言って背を向けて歩き出す彼。
 意味深な言葉と私一人をその場に残して、彼はもう振り向く事はなく去って行った。

 *

「よぉ、笠井」
 俺が部室で着替えていると、こいつ――笠井が入って来た。
「遅かったな。今まで何やってたんだよ」
 俺はジャージに着替え終わると、笠井にそう尋ねた。いつもならとっくに部活に参加している時間だ。なのにこいつは、時間に遅れて来てやがる。ま、人の事言えねーんだがな(苦笑)
「委員会の仕事があったんですよ。タケ先輩こそ何やってたんですか」
 笠井は、俺の隣のロッカーに荷物をどさりと置くと、チャックを開けてジャージを取り出す。俺はそれを横目で見ると、しゃがみ込んで靴紐を結び直した。
「俺も委員会の仕事があったんだよ」
「ふーん」
 自分から尋ねておきながら、隣のこいつは俺の話になどさして興味もなさそうに返事をした。
 俺は靴紐をきゅっと結び終えると、立ち上がって、傍らに置いていたサッカーボールを持って、部室から出ようと歩き出した。
 因みに俺はサッカー部に所属していて、これでも結構強い方なんだぜ。レギュラーでもあるし。
 俺は得意気に数回リフティングした後、部室の扉を開けようとした。が、
「……先輩、」
「ん?」
 未だのろのろと着替えている笠井に、呼び止められてしまった。
「……」
「何だよ、笠井」
 呼び止めておいて言葉を続けようとしない笠井に、俺は続きを促すが、なかなか次の言葉を言おうとはしない。
 俺は体ごと笠井に向き直った。
「おい、笠井?」
「……池内さん、」
「え?」
 声が小さくて、笠井が何を言ったのか聞こえなくて聞き返すと、笠井はやっと俺の方を向いた。
「……池内さんって人が、タケ先輩のクラスにいますよね?」
「池内?」
 出て来た言葉と名前に俺は拍子抜けしちまって、アホみたいな声を出してしまった。
 この狭い個室に妙な緊張感が漂っていて、しかもこいつはなかなか言おうとせずにもったいぶるから、何を言い出すかと少しだけ身構えてしまったじゃねぇか。
「……池内って、俺と席が隣の、あの女子の事か?」
「……はい」
「池内がどうかしたのか? てかお前ら知り合いだったのか?」
「知り合いって訳じゃないんですけど……さっき廊下でその人とぶつかったんですよ」
 笠井はそう言うと、また背を向けて着替え始めた。俺は「へー」と返したけど、笠井が何を言いたいのかが分からず、その場に立ち止まって続きを待つしか出来なかった。
 幾秒かの沈黙が訪れ、俺は溜息をついた。
「先行ってるぜ」
 痺れを切らしそう言った。それ以上何も言わない笠井を待っていると、部活が終わっちまう(いや、実際は終わんねーけどよ)。ただでさえ委員会で遅れたというのに、これ以上遅れたら監督に何て言われるか分からない。
 俺は部室に笠井を一人置いて、扉を開けようとドアノブに手を掛けた。

「先輩」

 呼ばれて振り向くと、着替え終えた笠井が、短パンのポケットに両手を突っ込んだ状態で立っていた。
 そして、俺を見据えながら、ゆっくりと口を開く。
「俺、その人が――池内さんが、タケ先輩の彼女なんじゃないかって思ったんですよ」
「……は?」
「でも、違うみたいですね」
 そう言って笠井は、いつもの生意気な笑みを浮かべた。
 俺はと言うと、思い掛けない笠井の言葉に、口をぽかんと開けたマヌケな面をしていた。が、笠井が何を言いたいのかを、俺の少ない脳みそをフル回転させて、俺なりに分析してみたんだ。
 マジにさ、こいつはいつも生意気な事を言う奴なんだよ。けどよ、今みたいに躊躇するような物言い、滅多になくて。
 いきなり池内の名前を出して来て、一体こいつは何が言いたいんだ?
 俺の彼女だと思ったって言ってたな、今。でも違うって分かって、笑ってるぞこいつ。
 まさか笠井のやつ……。
「……お前、」
 僅かな時間にこれだけ考えて、俺はある一つの答えを導き出した。
 笠井は俺の隣まで歩いて来ると、ドアノブに手を掛けて、こいつを待っていた俺を置いて、一人先に部室から出ようとしていた。
「待てよ、笠井」
「何ですか」
「お前まさか、池内に惚れたのか!?」
「なっ……そんなんじゃないですよ……」
 そう言って笠井は、俺を一人部室に残して、ばたんと扉を閉めやがった。
 しかし笠井のあの態度。
「ありゃ図星だな……」
 俺はそう呟いて、一人でニヤニヤとしていた。
 これからはあいつで楽しめそうだな。
 しかしまぁ、俺は優しい男だからな。協力くらいはしてやるか。

 *

「池内ー」
「なに?」
「これ、返しといてくれよ」
「……」
 これ、と言って差し出されたのは、本だった。
 登校して自分の席に着いた私にそんな事を言って来たのは、隣の席のあいつ、武本だ。
「……そんなの自分で返せばいいじゃない」
 私はわざとらしく溜息をつくと、鞄を机の横に引っ掛けた。
 本を借りたのは武本なんだから、普通は自分で返すもんなんじゃないの? てか武本が本って……
「これ、な。頼んだぜ。昼休みか放課後、どっちかな」
 そう言って、武本は私の机上にその本を置くと、立ち上がってどこかに行こうとしていた。
 たった今自分で返せと言ったばかりなのに何こいつ!?
「ちょっとー!」
 本を持って私も立ち上がり、武本を引き止めようとした。
 武本はこちらを振り返りにかっと笑うと、
「頼むって。池内が行かなきゃなんねぇんだよ」
 そう言った。
「え?」
「じゃな。今日中に、頼むぜ」
 今日中に、という所を強調してそれだけ言うと、武本は手をひらひらとさせながら教室を出てどこかに行ってしまった。
 私は溜息をついて、仕方なく席に着くと、渡された本を無意味に色んな角度から眺めていた。
「……どういう事?」
 私が行かなきゃならないって。
 武本の言っている意味が分からなくて、その意味を早く知りたいから昼休みに図書室へ行こうと考えたけれど、よく考えたら昼休みは部の集まりがあった事を思い出す。
 放課後にしよう。
 私は本をぱらぱらと捲った。
 小さな文字がずらっと並んでいる本で、とても武本が好んで読む本とは思えなかった。でも巻末にある図書カードを見ると、確かにあいつが借りた事になっているから、どうにも不思議でならなかった。しかも、借りた日付を見ると、昨日になっている。読書好きなら分かるが、あいつがこれを一日で読み終えたなんて、ますます有り得ない。図書カードには、この本しか書かれていないから、きっと初めて借りたのだろう。何だかまるで、この為だけに借りたみたいじゃない……。
「本、か……」
 そういえば彼もあの日、沢山の本を持ち歩いていたっけ。
 彼、を。思い出した。
 あの時の――一週間前の、彼が言った言葉は、何だったのだろう。
 私は彼を、笠井君の事を思い返していた。

 放課後になり、私は三階にある図書室を目指し、足早に歩いていた。
 武本が残した意味深な言葉の意味を知りたくて。
 授業中や休憩時に何度か尋ねたけれど、適当に笑うだけで、それ以上は教えてくれなかった。
 本を大事に抱えながら、階段を上って行く。
 少し遅くなってしまったけれど、まだ図書室は開いているだろうか。もし開いていたとしても、生徒は誰もいないかも知れない。そんなとこに私が行く意味なんてあるのかな……。
 図書室に到着すると、まだ電気が点いている事に気付いて、ほっとする。
 がらっと扉を開けて中に入ると、予想通り、生徒は誰も居なかった。居たとすれば、図書委員で今日が当番の人だろう。 
 でも、見渡してみるけど誰もいない。
 どうしよう……。
 図書カードに書き込みをするのも管理をするのも、図書委員と司書の仕事だから、勝手に自分でやってしまってはいけないだろう。
 私は司書らが戻って来るのを待つ事にし、その間暇になるから、面白い本でも探してみようと室内を歩き回った。
 すると、どこか奥の本棚から、ごそごそと本を並べているような音がした。
 あ、誰かいたんだ……。
 良かった、独り言言ってなくて。と、変な所の心配をしてしまった。
 司書ならすぐに声を掛けて帰りたいが、覗き込んでみて生徒だったら嫌だから、気付かないフリをする事にした。
「あ」
 本棚をごそごそとしていた誰かは、その作業を終えると、こちらに向かって歩いて来た。
 誰か、が零した声には気付いたけれど、私はその誰かにわざと背を向ける形で立っていた為、いちいちそれに振り向く事はしなかった。
「……池内、先輩?」
 聞き覚えのある、声だった。
 それに、私の名字を呼んでいるから、振り向かない訳にはいかず。
「笠井、君……!」
 私はそこに立っていた人物を見て、酷く驚いた。
「……何してるんですか?」
 笠井君も僅かだが驚いた表情をしていた。それは一瞬で消え去ってしまったけれど。
「この本を返しに来たの」
 そう言って、持っていた本を見せた。
「でも、司書や当番の人がいなくて……だから戻って来るのを待ってたの」
 私が答えても、質問した当の本人は、特に返事はしなかった。
「貸して」
 そう言って私から本を奪うと、スタスタとカウンターの方へ歩いて行く。
 訳が分からず笠井君に付いて行き彼の行動を黙って見ていると、彼は本から図書カードを抜いて、判を押そうとしていた。
「勝手にしちゃっていいの?」
「俺、図書委員ですから」
 彼の行動に驚いて口を挟むと、意外な言葉が返って来た。
「そうだったんだ。あ、だからこの間も本を沢山持ってたのね」
「そう」
 私は彼をじっと見つめていた。彼と一緒にいると、こうして話していると、ドキドキしている自分がいる事に気付く。
 恥ずかしくなって彼から視線を逸らそうとすると、
「あれ? これ……、」
 彼が驚いた様子で声を上げたので、結局逸らせなかった。彼はカードをまじまじと眺めながら眉を顰めて、
「タケ先輩のカードじゃん」
 そう言った。
「ああ、その本、武本に返して来てくれって言われたの」
「……ふーん」
「あいつがその本を借りるって変だよね。しかもそれが初めて借りた本みたいだし……」
「……」
「それに今日だって、自分で返せばいいのに私に押し付けて。返すのは私じゃなきゃいけない、みたいな事言ってたし……」
「タケ先輩、そんな事言ってたんですか」
「うん」
「……ふーん」
 笠井君は、僅かに目を細めた。けどそれは一瞬で。
 その形相は怒っているのか呆れているのか、どうも掴めない様子だった。

 *

 池内先輩が返しに来た本に、タケ先輩の図書カードが入っていた事には驚いたが、この本をタケ先輩に返して来てくれと言われたんだと知ると、すぐにタケ先輩の企みに気付いた。
 俺があの日、タケ先輩に余計な事を言ってしまったから、勘付かれたんだろう。
 まぁ別に、隠し通すつもりもなかったからいいんだけどね。
 池内先輩は、困惑した表情でこちらを見ていた。
 俺はタケ先輩の企みに気付いているけど、彼女はきっと何も知らない。だから未だに、何故自分が返しに来なければならないのだろうと、思ってるだろう。
 けど俺も、彼女には何も言わないでおこうと思った。
「返しに来ただけですか? 何か借りていきます?」
 俺はカード処理を終わらせると、それを学年・クラスごとに分けられたカード入れに入れた。
「あ、じゃあ……借りて行こうかな」
 そう言うと彼女は、室内をうろうろと歩き出した。
 俺は適当に近くにあった椅子に座って、机に頬杖をついた姿勢で、彼女の行動を眺めていた。
 ちょこちょこと小動物のように歩くところ。
 どうしようどうしようと、本を選ぶ姿。
 俺が見ている事に気付いて、照れたようにはにかむところ。
「これにしよ」
 そう言って選ぶ終えると、笑顔で俺の所に本を持って来るところとか。
 可愛いなって、思った。
「じゃあこれを、お願いします」
「ん」
 俺はさっきタケ先輩のカードを仕舞ったカード入れをごそごそと漁り、先輩の名前を探した。
「“池内”って、クラスに一人だけ?」
「そうだよ」
 一枚一枚丁寧にカードを見て行き、やっと先輩のカードを見付けた。
「……美鈴?」
「え……」
「先輩、美鈴って名前なんですね」
「あ、ああ……うん。そうだよ」
「へー」
 俺はカードに、今日の日付、本のタイトル、貸出日、返却日を記入し、巻末のカードポケットにそれを差し込んだ。そして本をパタンと閉じると、「はい」と、先輩にそれを手渡した。
「ありがと」
「どういたしまして」
「棒読み~!」
 お礼を言われたから普通に返したんだけど、棒読みだと言われて笑われた。
 けど楽しそうに笑う姿を見て、僅かだけど、俺も笑った。

 *

 ――――美鈴。
 いきなり名前を呼ばれた時は驚いたし、何よりドキッとした。
 呼ばれたって言うか、ただ初めて知った名前を呟かれただけだったんだけど、何か、嬉しかった。
 結構仲良しの武本だって私の事は名字で呼ぶ。名前で呼ぶ人は女友達しかいないから、恥ずかしいけど嬉しいと思った。
 嬉しいと思った事が恥ずかしい。
 何だかまるで……彼に恋した乙女みたいじゃないかって。
 でも、彼が笑ってくれた事も、本気で嬉しいと思ってしまった。これはもう誤魔化しようがないくらいに、本気で嬉しかった。
 私は、彼の名前も聞いてみる事にした。
「笠井君の名前は、なんて言うの?」
 尋ねると、彼はたった一言、
「リョウ」
 そう言った。
「リョウ君かぁ……へー」
 笠井リョウ、か。
 私は心の中で彼のフルネームをなぞると、嬉しくなって笑ってしまった。
「……何笑ってるんですか」
「ううん、何でもない」
 彼に不審がられてはいけないと思い、これ以上は笑いを堪えた。
「そろそろ図書室閉めるんですけど」
「あ、うん」
 時計を見ると、結構時間が経ってしまっている事に気付いた。
 私は急いで図書室から出ると、彼はまだ消灯や戸締りをしていた。その様子をじっと見つめながら待っていると、彼は漸く室内から出て来て、扉の鍵を閉め始めた。
「別に待ってなくて良かったのに」
 鍵を閉め終えた彼にそう言われたけど、自分の所為でこんな時間になってしまったのだから、先に行くのは何だか気が引けた。
「私の所為でここに長居する事になっちゃったから」
「別に。俺、今日当番だし」
 そう言って彼は廊下を歩き出した。途中まで一緒に行こうと、彼の少し後ろを、私も歩き出す。
「でも普通、こんな時間まで委員の仕事はないんでしょ? そもそも放課後は司書くらいしか……」
「俺、先週当番だった事忘れてて、サボっちゃったんですよね。だからその罰として、今日の放課後、本棚の整理でもしろって言われたんですよ」
「そうだったんだ」
 それから暫くはお互いに何も言わずに歩いていた。
 沈黙のまま、階段を下りて二階に。そして一階に。
 その沈黙の中、私はある事をずっと考えていた。考えて考えて、彼にどうしても聞きたいと思った。
 でもいつ切り出そうかと考えて、そして、聞いてしまってもいいのか、聞く勇気はあるのかと、自分に問い質すまでになった。
 私も彼も、この後部活に行かなければいけない。
 別れてしまう前に、機会がある内に、やっぱり、聞こうと思った。
「……笠井君」
 一階にある下駄箱の近くで、私は立ち止まって彼の名を呼んだ。
 オレンジ色の夕陽が、差し込んで来る。
 どこの部だろうか、走り込みや声出しをしている声が校舎内まで聞こえて来る。
 彼は振り返って、私が立ち止まっている事に気付くと、彼も無意識にか、立ち止まる。
 どうやら私の声は、外の音に掻き消されずに済んだようだ。
「……何ですか」
 彼は私から視線を逸らす事なく、じっと見据えて来る。
 私は勇気を出して言葉を紡いだ。
「……この間、別れ際に言った笠井君の言葉……あれって……」
 どういう意味……? そう続けると、彼は特に表情を変える事なく、
「そのまんまですけど?」
 さらりとそう返された。
「え、そ、そのままって……そのまま?」
 私は彼に言われた言葉を思い出し、自分なりに解釈をすると、どうしても自分に都合のいいように解釈をしてしまうのだ。だから「そのまま」だと言われて、あたふたとしてしまった。
 今まで真顔でこちらを眺めていた彼は、そんな私を見ると、ふっと笑った。
 私は恥ずかしくなって視線を逸らすと、
「先輩」
 突然呼ばれて、また彼を見た。
 彼から紡ぎ出される言葉を黙って待っていると、彼はあの時と同じように、にっと悪戯っぽく笑って、言った。

「俺、先輩の事、好きになってもいいですか?」

 彼の言葉に驚いて何も言えずにいると、「それじゃ」と、また私を置いて一人去って行った。
 遠ざかる彼の背中を、ぼんやりと眺める。追い掛ける事はしなかった。する必要もなかった。
 だって、彼の背中は、冷たく離れて行ってしまったんじゃない。あれは、とても温かい背中。
 笠井君。
 あのね、私本当は本なんて別に借りたいと思ってなかった。読書が好きな訳じゃないし。でも、借りたらまた返しに行かなきゃいけないから。また、笠井君に会えると思ったから。
 あの時の気持ち、それはきっと。
 今の気持ち、これはきっと。
 次会えたら、今の返事をしてもいいかな?

 いいよ

 って。

<おまけ↓>

「タケ先輩」

「よぉ、笠井」

「今度聞かせて下さいよ、話」

「あ? 話ってなん……
「『人生とは何か』」

「……げっ」

「あの本、面白かったですか?」

「な、ななな……、何の事かな~笠井君」

「……ばればれです」

 -Fin-

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