短編小説

雪の精でも見たのだろうか

 彼女を初めて見たのは、ひらひらと雪が舞い降りる日だった。

 初雪は、十二月の半ばだった。それから雪はずっと降り続け、積雪こそないが、ひらひらと舞っては地面を濡らしていた。
 俺は野球部に所属していて、そこそこ強豪と呼ばれるチームに居る。厳しい練習の中で鍛え上げられた技術や体力。同時に、徹底的に鍛え上げられた礼儀。基本的なマナーは勿論、コート内での練習中も、校舎の敷地外での走り込み中も、近くを通り過ぎる人にきちんと大きな声で挨拶をする事、俺達部員は、そういった事まで監督に叩き込まれた。
 そして、『その日』も当然、老若男女問わず、フェンスの向こう側、通り過ぎる人々に、大きな声で挨拶をする。いつも同じ時間に通り掛かるおばあさんは当然の光景を前ににこりと笑みを見せて挨拶をし返してくれる。会釈だけして無言で通り過ぎるサラリーマンも居る。笑顔だけ見せる子供も居れば、俺達に負けぬ大きな声で挨拶を返す子供も居る。初めて声を掛けられた人なんかは、驚いてそそくさと立ち去ってしまう。一瞥すらも億劫そうに、無視を決め込みスマホを弄る人も居る。まあ、多種多様であるが、どれも当然の反応だと思うし別に反応の有無など気にする部員はいない。
 召集が掛けられ、コートの隅で、眉間に皺を寄せた監督の話を聞いていた時、彼女は現れた。雪と同化してしまいそうな程の真っ白なコートに身を包み、淡い水色の傘を差していた。天使の輪が浮かぶ美しい黒髪が冷風で靡いていて、……――綺麗な人だ。俺は一瞬見惚れた。
 俺は部のキャプテンを務めている為、俺が真っ先に挨拶をしようとしたが、彼女の足音に気付いた監督が背後を振り返り、彼女に向かって挨拶をした。それに続き、俺達部員も大きな声で挨拶を送る。すると彼女は酷く驚いたようで、パッと上げられた顔はそれを見事に表していた。瞳を丸くさせて、一瞬言葉を忘れたみたいな。まあ、当然の反応だろう。部活とは言え、男どもが集まっていきなり挨拶をしてくるのだから、ギョッとするだろう。白く透き通る肌が寒さで少しだけ赤く染まっていて、色のない景色に映える気がした。
 彼女はほんの僅か狼狽した素振りを見せた後、はにかみながら会釈して通り過ぎていった。監督の話をそこそこに、俺は彼女の背中をぼんやりと眺めていたが、
「コラァッ、坂本っ! いつまでも見惚れてんなよ!」
 と監督に怒鳴られ、結局前を向かざるを得なくなった。ドッと笑い声が辺りに響き渡り、何とも居た堪れない気持ちになりながらも何とか冷静に否定の言葉を放つが、聞き入れる連中でない事は俺が一番知っているんだったとこっそり肩を落とした。
 きっと監督の怒声が彼女の耳にも届いただろうから少し気恥ずかしかったが、まぁ彼女には『坂本』が俺である事など分かるはずもないから、そこは良しとした。

 二度目彼女を見たのは、その翌日だった。一度目の時と似たような時間に同じスタイルで。その日は試合をしていて、監督は遠くに居たし、フェンスの近くに居たのは俺と数人の部員だけだった。俺とその数人が挨拶をすると、彼女は薄く微笑みながら、
「こんにちは」
 と、吐息を漏らすようなとても小さな声で挨拶を返してくれた。
 試合に集中しながらも、頭の何処かで彼女の事を考えた。何処に住んでいる人なんだろう、何歳なんだろう。いつから此処を通るようになったのか。恐らく、この時間帯に此処を通るようになったのは昨日が初めてではないだろうか。他の時間帯は知らないが、挨拶した時に驚いた表情を見せていたから。社会人なのか学生なのか、そこを通り掛かる以外の情報など当然無く、どれだけ思考を巡らせても、決定付けられるものは結局何もなかった。

 三度目彼女を見たのは、その更に翌日だった。やっぱり似たような時間に同じスタイルだった。
 その日は雪が積もり、午後には溶けたが校庭には雪が残ってしまったので、練習メニューが主に走り込みと、屋内での筋トレだった。走り込み中彼女を見つけ、先頭を走る俺はチラと彼女を見ると、目が合った。しまった、と。何故か反射的に俺はやや視線を下げてしまったが、声と姿勢だけはいつもの調子で、そしていつものように挨拶をする。どんな反応を返してくれるのか気になって再び彼女を見ると、彼女は状況に慣れたのか、にっこりと笑って挨拶をし返してくれた。
 ……たったそれだけの事なのに。彼女の事、何も知らないのに。
 彼女の姿を見たいと、部活の時間が楽しみ、と。そんな風に思うようになってしまった。
 だけどそれから二日間は彼女はその場所を通る事はなく、俺は自分でもビックリするくらい内心ガッカリしていた。
 けど、また通り掛かるようになって、彼女にも彼女の都合があるんだと考え安堵した。それと同時に、心躍る感覚が湧いて出てきて、彼女を見掛けた直後の俺は、少しテンションが高くなってしまった。俺自身その自覚はなかったのだが、部内で一番仲のいい内田に指摘されてしまったんだ。
「ん? お前今日テンション高くねぇ? 何かいい事でもあったのか?」
 って。
 内心かなり焦ったが、俺の気持ちがバレた訳ではなさそうだったからそれに安堵し、適当に嘘を言っておいた。
「ああ、今日の昼休み監督に呼ばれて、部長として少し褒められたんだよ」
 と。実際監督はダメ出しばかりじゃなく部員を褒めてくれる事も多いからな。
「よかったじゃん。まあお前部長として頑張ってるしな」
 なんて言ってすっかり俺の言葉を信じ切っている様子の内田。それに苦笑を漏らす事でこの会話は打ち切った。

 それから数日経ち、クリスマスを迎えた。
 その日は部員全員で、校庭の雪掻き作業に追われていた。雪掻きしなければ当分校庭が使えないのと、その動作そのものがトレーニングになるのだと監督に言われた。せっせと雪掻きをしていたが、そろそろ彼女が通り掛かる時間だとふと気付き、俺は道路に近いフェンスへと移動していく。
「おい内田。こっちの方もやっておこうぜ」
 なんて自然な台詞を吐いて、一人だけ不自然な行動にならぬよう、近くにいた内田に声を掛ける。けど、そこで内田を呼んでしまった事が災いしたんだ。
 彼女は通り掛かった。(わざと)近くにいた俺と内田が彼女へ挨拶を送ると、彼女はいつものようににっこりと笑って「こんにちは」と言ってくれた。けれどその日は直後に、初めて二言目を俺にくれたんだ。
「頑張ってくださいね」
 って。
「え……あ……ありがとうございますっ!」
 予想だにしなかった二言目に、俺は明らかに動揺した。だけど俺の気持ちを悟られるのが怖くて、すぐさまさっと目を逸らして彼女に背を向ける。雪掻きを頑張っている姿を装ったけど、俺の顔をハッキリ見た内田に、何もかもバレてしまった。
「……お前顔赤いぞ?」
 ボソッとそう言った後、内田は俺から視線を外し、彼女の後姿を見ていた。そして内田はフッと笑みを零した。
「なんだ、そういう事かよ」
 雪掻きをする俺の手がピタリと止まる。
「この辺雪掻きしなくても差し支えないのに、する必要あんのかって思ってたけど、今ので納得したわ」
 内田の言葉にぐっと言葉を詰まらせる。は? 何言ってんだよ、なんて言葉を平然を装って告げる余裕がその時の俺にはなかったくらい、多少なりとも彼女に憧憬の念を抱いていたんだ。そして、先刻の彼女の言葉に、この時もまだ心打たれていたんだ。それをはっきりと自覚し、悔しくて情けなくて、同時に、圧迫されたものが開放された気もした。
「彼氏いんのか聞いてみれば?」
 決まり悪く俯きながらのろのろと雪掻きする俺を、内田は揶揄しなかった。
「……い、いるだろ、絶対……」
「わかんねーじゃん」
「いや……絶対いる。それにそんな事聞いたら好意持ってるのバレるだろ」
「今どきそんなんじゃバレねーだろ。別に好きでもないヤツに会話の流れで聞く事もあるし、特別な意味もなく聞く事もある」
「それは友達とかある程度見知ったヤツに聞く場合だろ」
「まあな」
 一気に気落ちした俺が小さく溜息をつくと、そんな絶望的な顔すんなよ~と内田に軽く笑われた。
「お姉さん、彼氏いるんですかー? って、軽い調子で聞けばいいだろ」
「何か……チャラくねぇ?」
「チャラいな。けど、クソ真面目に聞いたら、それこそ好意がバレるぜー?」
 内田は言いながら可笑しそうにははっと笑ったが、俺は全く笑えなかった。これからどうしたもんかと、悲観的に溜息を漏らしただけだった。
「ま、機会があれば聞いてみ。頑張れよ~」
 手をひらひらっとさせて、内田は歩き出した。それを俺はバカみたいに突っ立って見送るだけで、それから少しして、今はもう既に見えなくなった彼女の後姿を、冬景色の中見ていた。

 それから何度も彼女は通り掛かるが、やっぱり挨拶をするのが精一杯だった。それは俺に勇気ややる気というものが欠如していたからではなく、走り込み中だったり、監督が傍にいたり、試合中だったりで、どうにも二言目を交わす機会など訪れなかったからだ。不運が続けば当然落胆し、進展など望めない恋だと悟らざるを得ない。
 結局何も進展ないまま十二月が過ぎ、一月になってしまった。年末年始は部活動も休みで、グラウンドに行く予定もなかったから、彼女がその期間いつもの道を通っていたのかすら俺には解らない。
 休みが明け、五日からまた学校が始まり部活動も始まった。が、その日は彼女の姿を見掛けなかった。年始後数日経ってから休みを貰う社会人もいると聞くから、もしかしたら彼女もそうなのかも知れないと、その日の俺はそう考えていた。
 ――が、一週間経っても、彼女の姿を一度も見ない。長期休暇でも取っているのかも知れないし、もしかすると体調を崩しているのかも知れない。殆ど言い聞かせるように頭の中にそんな考えを張り巡らせていたけれど、二週間、三週間経っても、やはり彼女は現れなかった。その内、内田が俺を心配して声を掛けてきたが、正直何を言われたのか記憶にない。大丈夫か? って、最初に尋ねてきた事だけは覚えているが、あとは覚えていない。
 やがて二月になり、もしかしたら……なんて期待ももうしなくなったし、段々とその状況に慣れつつあった。不完全燃焼の恋、と言える程燃焼した恋でもなかったが、淡い恋心を抱いていた事は事実だったから、どこかやはり落胆の気持ちはあった。だけどやっぱり、最初からどうこうなる恋でもないと諦めていた部分があったし、もう、いいんだ。突然会えなくなった事は切ないけれど、うん、もういい。傷付いている訳でもないし、彼女を探したいとも思わない。ただほんの少し切ないと思うくらいの、淡い想い。
 十二月の間だけ見かけた彼女。雪と同化してしまいそうな真っ白なコートに身を包んでいた。白く透き通る肌に赤みがほんの少し差して。綺麗な黒髪に、色付いた唇がよく映えていた。美しい容姿に優しい微笑みが『天使』や『妖精』を連想させたが、彼女は人間だ。間違いなく、人間だ。だからきっと何らかの事情があっていつもの道を通る事はなくなってしまったのだろうけど、たったの一月(ひとつき)、雪の季節、雪が似合う彼女が現れて。
 俺は、雪の精でも見たのだろうか、と、思わずにはいられない。

 20170111
 -Fin-

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